浄瑠璃寺へのみち
その美しい道は、浄瑠璃寺へと歩く途上にあった。冬枯れの灌木に中に続く白いトンネルのような細道。扇状地の縁を山際に沿い緩やかに上ってゆく。つい今し方、農作業の軽トラックが一台走っていったきりで、人の気配はない。舗装を割って草が生え、脇の叢林との境目は曖昧である。一月の末。立春近く、日差しは徐々に光を取り戻しつつある。それでも昼過ぎの太陽はまだ低く、南へと緩やかに上りゆく私の斜め前から、冬枯れの木々の枝の重なる合間を縫って白い光が差してくる。光に満ち、来るべき季節の予兆に満ちている。しかし、まだ草木の匂いはしない。時折下草を揺らす風の音がするだけで、世界は静まりかえっている。一歩一歩が惜しく思えた。再三立ち止まっては三脚を立て、スローシャッターでレンズの絞りを絞って隅々にピントをとり、世界を写し取っていった。この先に、その名を薬師如来の浄瑠璃浄土に由来するという浄瑠璃寺があるはずだ。しかし、この道そのものが、浄土であるかのように私には思われた。
恭仁京と平城京との間には、山城と大和の境をなす平城山丘陵が横たわる。その国境近くに浄瑠璃寺に詣で、先月恭仁京を訪れたときに果たせなかった国境を越える小さな旅を企てた。
今度も加茂駅で電車を降りる。実はこの「加茂」という地名は、京都の加茂御祖(かもみおや)神社、即ち下鴨神社に連なっている。駅から木津川に沿って一キロ半ほど遡ったところに岡田加茂神社という社がある。この社の祭神は、下鴨神社と同様、加茂氏の祖とされる賀茂建角命(かもたけつぬのみこと)であり、神武東征の折に日向に降り立ち、大和の葛木(葛城)に至り八咫烏に化身して神武天皇を先導したという。また、逸文の山城国風土記によれば、葛城山から山代(山背、山城)即ち大和から見ればまさに山の後ろの山代の、ここ岡田の地を経て、高野川と賀茂川の合流点に鎮座したとあるという。下鴨神社の創建は古く、平安京どころか平城京の成立よりも古い。そして、この岡田の地も元明天皇の離宮があったという。その伝承地には天神社が祀られていたが、すぐ北方の河原にあったもとの岡田加茂神社はたびたび水害に遭い、天神社へと遷座しているという。因みに、元明天皇は、若くして崩御した我が子文武天皇の後を継ぎ平城遷都をなした天皇であり、恭仁京遷都をなした聖武天皇の祖母である。まずはこの社に参ってから、府県境を目指すことにした。
先月も歩いた集落を抜け、民家の合間に続く細道を上ると木津川の堤防に出た。木津川と集落の屋根屋根を見下ろす堤防の道を行く。先月訪れた折に十日戎で街中に響き渡っていた演歌は、当然ながら今日は聞こえない。それだけで街の印象が随分違うように思える。が、しかし、寒々とした木津川の流れはつい先日見たばかりで、さほどの違いがあろう筈もない。木津川に注ぐ小川を渡り隣の集落に出る。その奥に岡田加茂神社の杜があった。松並木の参道の奥の境内に小さな朱塗りの社が並び、右が本殿、左は天満宮である。妻入りで屋根が弧を描く春日造りのこの社殿は、式年造替で建て替えられた春日大社の旧社殿を「春日移し」で下賜されたものであるという。柏手を打ち、小さな境内を歩き回り、社務所の裏に茂る万年青を凝視する。社の杜の裏には冬枯れの田畑が広がり、その奥に河原の竹林が鬱蒼と茂る。あの奥に岡田加茂神社の旧社地があるようだが、よく分からない。ともかくこの地を見届けた、と、義務を果たしたかのような心持で引き返した。
木津川を背に小川を遡る。甲高い汽笛を鳴らして二両編成の小さなディーゼルカーが行く。線路の築堤を潜ると、道は小川の高い堤防へと上る。正面には平城山丘陵から続く山が迫り、小川は山際に沿って流れている。
その川に橋が架かっていて奥に石段が見えた。御霊神社とある。上ってみると、そこは燈明寺という寺の跡であった。聖武天皇の勅願により行基によって開かれたというこの寺は、何度かの廃絶と再興を経て存続したが、明治になって衰退して荒廃し、大正三年に三重塔が横浜三渓園へと移譲される。そして、戦後すぐの台風で本堂も被害を受けたまま放置され、後に部材に解体されて保管されていたが、三十年ほどの後、同じく三渓園へと寄贈されて昭和六十二年に復元されたという。今は鎮守社であった神社だけが残っている。参道の脇を上ると、境内を見下ろす樹間に三重塔の建っていた平地が開けていた。冬の陽が、暗い樹間に射し込んで強い陰影を作っている。
丘に沿う古い道を行く。その森の中へと続く小径があって、春日若宮社の小さな看板が立っている。足を踏み入れると、背の高い常緑の木々が黒々と茂る中に薄暗い森の道である。脇の沼は灰色に干涸らびている。森の中の静かな社はここもまた「春日移し」の社殿である。反対側の表参道を下って鳥居を潜り、集落の道を二十メートルほど行くと「歓喜天」と石碑が建っていた。参道だったと思しき草生した坂道が、若宮社の参道と平行して隣家の塀との間に伸びている。歓喜天といえば聖天さんである。そして生駒聖天といえば、現世利益あらたかであるとともに、「願掛けの折になした約束を守らぬと容赦なく罰を与える」との伝承が有名で、それが頭に去来した。おそるおそるその道ならぬ道へと足を踏み出す。横から生い茂る木々の枝の下を身を屈め、草に足を滑らせながら先へ進むと小さな広場が現れ、若宮社の方へも草生した坂道が続いている。そして山手の森へと石段があった。石段の脇には苔生したお地蔵様やら墓標やらが身を寄せ合っている。階段を上り詰めると深い木々の奥に小さな社。そして、数段上った奥にも平らに開かれた場所があったが、そこには既に堂宇はない。柵で囲まれて何か耕作がされているようだ。この位置関係からして若宮社と無縁では無かろう。神仏分離と廃仏毀釈によって習合されていた歓喜天が廃れ、神社のみが残ったのかも知れない。林間にひらかれたその静かな空間には、古人の祈りの気配が今も満ちているように思われた。
山際の道を更に南へと歩く。集落は尽き、低い丘の谷間の田圃を渡る。道は笹の茂る暗い竹林へと吸い込まれ、行き止まりに見えたが、カーブミラーがあちらを向いて立っている。曲がった先は急坂で、木々が茂り道はますます暗い。少し上ると先に青空が見えた。ほんの十メートルほど上っただけなのだろうが、そこは高原という風情だった。耕作放棄地だろうか、笹の茂る野が広がり、奥の竹林の上に小さな白い雲が浮かんでいる。農業倉庫にも人の気配はない。緩やかに曲がりくねり、緩やかに起伏する田舎道は心地よかった。私が育った大阪千里の住宅街は、私が幼かった頃は、その街区を外れるとまだまだ果樹園や農地の広がるこうした田舎道がたくさんあった。幼い日に僅かに記憶する、その、まだ開発される前の千里丘陵の農地を思い起こさせた。
生い茂る笹を回り込むと唐突に住宅街が目に飛び込んできた。歩道つきのアスファルト道が真っ直ぐに上っているのが木々の間から見える。この光景も幼い日に見たあの光景を思い起こさせた。あちらに住む人たちからすると、こちら側は「然とも知れぬ」「未開」の世界に見えるのだろう。幼い日の私が、住宅街の外の世界に未知のものへの憧れとともにそう感じたように。そして、いま、この道からあちらを見ると、直線とコンクリートで固められた人為的な世界、分からぬものを排除した表層の世界に見えた。農地に続くこの道も道なのであって、農地として「拓かれた」に違いない。とはいえ、巨大な技術力に支えられ、地形をすら変えてしまうほどの土木技術を使い、人と大地とを分かってしまった二十世紀後半以降、土地と人間との関係は決定的に変わってしまったように思える。あるいは、この地に農耕技術が渡来したときも、人は同じようなことを考えたのだろうか。水稲耕作技術が渡来しても、すぐには日本中に広まったのではないのだという。無論、農耕は世界の光景を、大地の意味を一変させる。その変化に対する抵抗が彼らの中にもあったのかもしれない。しかし、いまや、農村風景は私たちにとって「懐かしいもの」として受けとめられる。いつでも変化とはそんなものなのであるならば、私は、ただ変化を怖れているだけ、ということなのだろうか。
丘の上の台地を拓いた住宅街、この街には異物の私は身を縮める思いで淡々と歩いた。谷筋だったのだろう道を下ると街の外れには府道が通っていて車が行き交っている。木津川の支流を渡る橋の上から、この小川が作った扇状地に冬枯れの田圃が広がりるのが一望できた。府道は扇状地の縁の土手の上に続いている。奥に見える山の中に目指す浄瑠璃寺がある筈だ。眼下の田圃の中を行く道が見え、犬の散歩をする人の姿がある。府道を行く気にはならず、土手を下りて田圃の道を行く。空が広い。そういえば電柱がない。周囲をぐるりと取り巻く丘はみななだらかである。道は小川に沿い始める。緩やかに曲がる道はその田圃の真ん中で二股に分かれた。府道とは反対の左の丘へと吸い込まれる道を行くことにした。
丘の縁へ、すると、春近い陽が葉を落とした灌木の合間から逆光気味に差す白いトンネルのような細道に出た。冒頭に触れたあの道である。この道を歩くために今日があったと思えた。何度も立ち止まって三脚を立て、中判の大きなカメラを据える。そう、今回の撮影行では三脚を立てて撮ることにしてみたのだ。久しぶりのことだ。四月に展を開くためにいろんな人と話した。ある人から、折角だから大きいフォーマットのカメラで三脚を立てて撮ってみては、と言われたことがきっかけである。ここ数年の制作では、かつてよく使った二眼レフなどの「中判」と呼ばれる、幅六センチの大きなフィルムを使うカメラではなく、主にライカを用いていた。35ミリ版、パトローネと呼ばれる小さな缶に詰められた36枚撮りのフィルムを使うカメラである。時に山中に入り込んだりしながらあちこちを歩き回っては撮るという私の撮影スタイルにはそれが合うと信じていた。それに、そこまでの解像度よりも、その場の気配を掬い取るにはむしろ、35ミリ版の方がよいのではないかと信じていた。しかし、こうして三脚にカメラを載せてみると、案外その間合いが気配を写しとめるにはよいようにも感じる。
二股の分かれ道で当てずっぽうに下の道を行ってみる。畑の縁で道は尽きた。引き返そうと振り返ると、光の加減が順光となり、それはそれで妙だ。田圃に立つ鉄塔の脚ですら美しく見えた。引き返して山手の道を行くと、檜などの常緑樹が目立ち始め、樹間の笹の原に倒木が白い。奈良へと越えるには時間がなくなりつつあったが、もうどうでもよくなっていた。目的は常に仮なのだ。行きつ戻りつ、この道のあちこちで三脚を立てた。いつまでもこの道を歩いていたいと思った。
扇状地の果てでその道は終わり、葛籠折れに上る二車線の坂道を登る。脇の林の中に店舗跡や古びた倉庫が現れ、その暗がりを凝視し三脚を立てる。この辺り一帯を当尾と称すが、ここには平安時代末期に既存寺院の俗化を嫌った僧達が庵を結んで隠棲して修行に励んだといい、平安から鎌倉にかけての石仏が至る所に点在する。道の脇に地蔵が現れ、斜面の石垣の上から磨崖物が覗いている。道端の木陰に、緑色の苔に包まれて随分古い墓標や地蔵がまさにぎっしりと身を寄せ合っている。
堀辰雄の掌編で有名な浄瑠璃寺は、西を山裾に遮られ、もう陽が翳っていた。馬酔木が並ぶ参道の奥に土塀があって、山門はごく質素だ。山門を潜ると大きな池の奥に見える本堂の姿に足を止めた。木々を背景に寄棟の質素なお堂が静かに佇んでいる。池はシャーベット状に凍っている。私の他に参拝客は一人だけで、静まりかえっている。
案内によれば、創建時の本尊は薬師如来であったようだが、その後、往生には九つの段階があるという考えを表す九つの阿弥陀仏を安置する本堂が建立され、庭園が整備され、京の寺より三重塔が移築されて今の伽藍となったという。池の西に阿弥陀如来の本堂が西方の阿弥陀浄土、そして、東の小さな丘の上の三重塔に薬師如来を安置して東方の浄瑠璃浄土とする。東の薬師如来は「過去世から送り出してくれる仏」であり「遠く無限に続くいている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て」て下さるのであり、こちらを此岸とし、西の阿弥陀如来は「進んでくる衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏」であって、そちらが彼岸を意味するという。
堀辰雄は浄瑠璃寺を「小さな廃寺」と表現し、次のように記している。「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?」確かに、この寺は「自然を超えんとして」浄土なる観念を創り出し、それを形象化したものと言えようし、そして、廃墟の魅力が「それが廃亡に帰して」「第二の自然が発生する」ところにあるという彼の言葉にも共感する。共感しつつも、私にとって「第二の自然」はこのような寺にではなく、路傍のあれこれにこそあるように感じるのである。「自然を超え」たものを創ろうとして造り出された寺は、今もここに寺として現に存続している。私の関心はむしろ、「喪われた全てのもの」のその幽かな気配なのだろう。人々が何らかの目的で造り出し、ひとの心が変わるとともに、それらは役割を終える。しかし、造り出されたそれは、その時のその人々の記憶を留めている。その幽かな記憶。
かつて私は初個展「くらいゆめ」の案内文で「てんでばらばらに生を目指したものたち。それが風化し集積し、そんなもので人の世はできている。」と記した。そしてその文を「汚く美しい様を印画紙に掬って歩く。」と結んだ。その時々の表現に応じて機材も、フィルムも変遷し、表面的な撮り口は変遷した。あれから十五年。しかし誰しも、根はそう変わることはできないのかもしれない。
それにしても、廃墟への関心、喪われしものへの憧れと、そこにあったはずの経験世界、そこに生きた人々の経験へ心寄せる思いであろうが、それはどこから来るのだろう。それは例えば、物語世界への没頭とも同じことなのかも知れない。今ここにある我が経験以外の何かへの離脱、ということなのだろう。ここではないどこかへの憧れ。そうして、私は、幼い頃から旅に憧れ、今もこうして歩き続けているのだろうか。
妻とともにこの寺を訪れた彼は、妻と寺の少女が話し込む声を聞きながら「僕のことなんぞ忘れてしまっているかのようだ。が、こうして廃塔といっしょに、さっきからいくぶん瞑想的になりがちな僕もしばらく世問のすべてのものから忘れ去られている。これもこれで、いい気もちではないか。」と記す。こうしてあてどなく歩く旅に出る度に、私は世界からはみ出てしまった気持ちになる。好んで旅に出ておきながら。解脱しきれぬ私は、いい気持ちと思いつつ、心許なく思えてしまう。それを何とかつなぎ止めるためにも、こうして文を認めたり、印画紙に像を結んでいるのかもしれない。そういう彼もどうだったのだろうか。それを書として残しているのだから。
そして、本稿を書いている最中、建築家の宮脇檀氏がカトマンドゥに残る中世の息吹について書いた文章に出会った。「一人ひとりの人間が神と美を信じながらたくましく生き」た中世には「私たちがもう喪ってしまった生きることへの無垢なよろこび、神への恐れ」があり、そして「そうしたものを求めて旅に出るのだが、不幸にして中世はほとんど純粋な形では存在していない」のであり、「それらしく残っているとしても観光の対象として形だけを見せて売っているものばかりだ」と。
そして気がついた。堀辰雄がこの地を訪れたときと今とでは、この寺の佇まい自体が変わってしまっているのではあるまいか。彼がこの地を訪れたとき、確かにこの寺は営まれていたわけだが、まさに「廃寺」と言うべき状態だったのかも知れぬ。そうであるならば、彼の感慨も納得できるように思える。過ぎ去りし信仰の息吹と、自然に朽ちるものの美と安らぎが彼にあの文を書かせたのではるまいかこ。今でもこの寺には京都や奈良の有名寺院のように整備がされているわけではないにせよ、実に美しく手入れされている。しかし、そこには「観光」という現実原理が目立ってしまう。むしろ、手入れされぬままに荒れる姿にこそ、かつてこの寺に「浄土」を見た人々の姿が浮き立っていたのではあるまいか。
一時間ほどをかけて、阿弥陀仏と向き合い「此岸」と「彼岸」を何度か往き来した。美しい境内ではある。半ば義務的にカメラ向けてみた。しかし、無理に撮ろうとして撮れるものでもなく、そうこうするうち、帰りのバスの時間がやってきた。
引用文献
宮脇檀、中山繁信編「神々と出会う中世の都カトマンドウ」エクスナレッジ、2012年