書写山

書写山

 

 春になると闇雲に西を目指す。西なら何処へでもよい、とすら思う。家から見下ろす線路は遙か西へつながっている。その線路を、次々と列車が去ってゆくのを見下ろしていた。春近く、新たな場を得て去る人々がいる。私はというと、同じ場にいて同じ立場で同じことを続けている。なのに、諸事は私を掴み、見下ろす線路を行く列車に乗ることもなかなかできない。人生のようだ、と思った。焦りに満ちていた。

 三月がやってきた。息子の入学も近づき、それに纏わり、諸事はまだ私を掴んでいた。ようやく見つけた一日、青春十八切符を手に入れ、西へ向かう新快速に乗った。乗り降り自由の切符である。何処へ行ってもいいのだが、そういいながらも仮にであれ目的地なしに出るのは心許なかった。かつてはもっと自由に旅したのに、どうしてこうも不自由になったのか、と思ったが、答えは案外簡単で、お迎えの時間に必ず帰ってこなければならないのである。無思慮に遠くまで行くことができぬわけだ。そんなわけで帰りの時間を計算して「仮に」目的地を書写山圓教寺と決めた。小学生の頃、父母に連れられて来たことがあったはずである。西の比叡とも称される圓教寺の所在するこの書写山について調べていると、この「しょしゃ」という音の源は「すさ」であり、素戔嗚尊がこの山に降り立ち、一宿したとの古事に因んで「素戔ノ杣」と呼ばれていた知った。何かとスサノヲと縁深く思う私の興味を惹いた。そして地図を開くと、夢前川を遡った姫路の平野部の尽きるところの山上にこの書写山があるわけで、人の住む平野のすぐ背後に小高く聳える山という神奈備た山の例に漏れない。そして、川を遡った谷奥という位置関係も、長谷寺や谷汲山の位置関係と相似形を描いている。ここまで知ってしまうと行ってみぬわけにはいかない。

 

 姫路から姫新線に乗る。播磨地方独特の、花崗岩質の小高い山がにょきにょきと生えている。姫路を出ると左に昨年歩いた手柄山。そして右手に霊園の名古山。そんな山の間を縫い、夢前川を渡り、姫路から北東へ十分ほど。二駅目の余部駅で降りた。

 駅前から真っ直ぐに伸びる道は菅生川を渡り、中学校に突き当たる。中学校の裏にも小高い緑の山が控えている。体育の時間なのか中学生達が校庭で運動に興じている。中学校にあまりいい思い出はない。音楽に夢中になり始めたのは中学時代のことで、楽しみもあったはずだが、しかし、中学校と聞くと暗い気持ちになる。屈託なく球技に興じているように見える彼らも、一人一人の胸の裡にはいろいろな思いもあるのかもしれぬ。要らぬことを考えながら学校に沿う道を歩いた。道は川縁に出る。川の向こうにも小高い山である。そして、中学校の裏に見えていた山縁が近づき、果たして神社があった。その社の脇の森の中を上る小径の奥に鳥居が見える。古びたコンクリートのお堂は妙見大菩薩とある。脇の藤棚は枯れている。境内には艦砲の砲弾をかたどった慰霊塔が建っている。風はまだ冷たく、木々は裸で、その間から日差しだけは強さを増して境内を白く照らしている。

 境内の裏の小径を降りると視界が開け、民家と田畑の錯雑する平地を見下ろす丘に沿って続く道。道沿いには、緩やかな斜面に墓が並ぶ。古来、集落の背後のこうした小高い丘に、人々は帰るべき場を思ったのだろう。それは、こうした丘に穴居した遙か祖先の記憶なのかもしれない。乾いた風が吹き、正面には高圧送電線の向こうに小さな白い雲が流れた。三脚を立てて、その様を収めた。

 

 丘を降り、北へと向かう。田畑の広がる農村が斑に開発され、住宅と農地が錯雑する。行く手にこれまでの小高い山より幾分高い山が見え、ロープウエイのケーブルが伸びているのが見えた。近づくにつれ横一直線に白く貫く山陽自動車道が見えてきて、絶えることのない甲高い走行音が徐々に近づいてくる。山陽道は書写山を貫いているのだ。このトンネルを抜けた先に昨年訪れた破磐神社がある。破磐神社も山陽道のすぐ脇にあって、道路建設に当たって社地を提供して境内を整備したとのことだった。ひょっとすると、社寺のすぐ脇を高速道路が通っているのは偶然ではないのかもしれない。こうした霊場は、人の住む盆地の縁にこそ立地するのだから。

 

 白い巨大な屏風のような山陽道の橋脚が、夢前川のつくった谷間を横切って並んでいる。ロープウエイは車両更新のため運休だった。圓教寺が出開帳をしている。もう昼下がり。歩いて登る時間はもはや、なかった。駅前の公園のベンチに座り込んだ。せめて歩こうと思った。余部と姫路の間の播磨高岡駅の周囲に文字通り小高い丘がにょきにょきと生えているのが列車から見えていた。播磨高岡駅まで五キロほど。歩くには程良い。思えば、出開帳には参らなかった。

 その帰路、いくつかの光景に出会い、そのたびに三脚を広げた。そうこうするうち、最後は小走りになった。駅の周囲の丘を眺める余裕などなくなっていた。妙に慌ただしく疲れて電車に乗り、帰りの電車では眠り呆けた。息子を迎えに行きながら、私は今日何をなしたか、と自問していた。

 

 翌週、展の準備や現像作業にあてようと思っていた一日。前夜になって、やはり書写山に登らねばと思った。ロープウエイが休みならそれだけ人影も少ないだろう。そのままにしてあった撮影機材リュックを背負い、先週より要領よく朝の諸事を済ませ、息子を送って一本早い電車に乗った。姫路駅から山麓までは迷うことなくバスに乗った。客は三人きり。早春の乾いた光の中、バスは車体をみしみしいわせながら古い集落の細道を右へ左へと縫ってゆく。

 バスを降りて歩き始める。しかしまだ、今日もこうして書写に来る意味があるのだろうか、と迷っていた。二車線の細い県道を行き交う車に身を縮めて歩く。道脇の民家の軒先のあれやこれやにシャッターを切ってみる。半ば義務的に。程なく、路地の入り口に書写山登山口の看板をみつけた。

 民家の裏を登る。いよいよ山に入るというところに「一丁」と丁石が立っている。もう一割も来たのなら、案外すぐに登ることができるのかもしれない。そのすぐ先で、向こうの墓地から上ってきた道と合流していて、「此下女人堂」と石碑が建っていた。書写山は室町から明治にかけて女人禁制で、下にある補堕落山如意輪寺が女人堂であった。墓地を抜け寺に降りると小さな境内である。すぐ下の書写の集落を見下ろす。静かだが、山の裏手から高速道路を行く車の走行音が絶えることなく聞こえてくる。石垣の下には雑木林があって、奥に民家の後ろ姿が見える。その佇まいに興味があるかのように思えてシャッターを切ってみる。しかし何か無理をしている心持ちがする。どうも何もかも気乗りがしなかった。日差しはますます強くなり始め、先程少し登っただけで、汗をかき始めていた。ベンチに腰掛けて上着を脱いだ。そして、所在なくぼんやりと座っていた。

 私はその寺に暫し留まった。留まるほかなかった。まるで、人生のようだと思った。一体人は、どれほど自由なのだろう。したいと思って自由に意志したつもりのことでも、その場の流れ、時代の流れの中で、そう思わされているに過ぎぬのではないか。何をすべきなのか。何をせねばならぬのか。何のために撮り、何のために書いているのだろう。よく分からなかった。行きがかり上、ここへ来た。展に向けて、時間はないはずだった。焦っていた。焦ってなした先に何があるのかも、よくわからない。しかし、今日はもうここに来てしまった。今から圓教寺に参る、ということ以外、することはないはずだった。来てしまった以上、この場に、身を任せればいいはずだった。そんな悶々とした私の思いとは裏腹に、日差しはあくまで明るく、あっけらかんと世界を照らしている。全ての「意味」を無化するかのように。遠慮がちな、まだたどたどしい鶯の声が聞こえた。吹く風にヒサカキの匂いがした。生臭い、生命の息吹を思わせる匂い。先週はまだ匂いのなかった風に、いつしか生命の生臭い匂いが混じり始めている。単純なことだ。来た以上、登ればよいのだ。腰を上げた。

 

 再び墓地を登り、参道に戻る。程なく二丁の丁石が現れる。三丁辺りから風化花崗岩の岩盤が現れた。この辺りではおなじみの光景である。白茶けた岩盤が剥き出しになっている。さんさんと照る日差しに汗が噴き出し、岩に腰掛け更に上着を脱ぐ。岩を上り林間の緩斜面に六丁休堂跡。あれよあれよと登ってゆく。再び岩盤を登ると十丁が現れた。しかし岩を登る道はまだまだ続いている。全体が十丁ではないのだ。やや脱力しながら登る。しかしそれから程なく、ロープウエイの山上駅が現れ十三丁の丁石があった。寺まであと一キロほどのはずだ。

 

 冥きより冥き道へと入りぬべき遥かに照らせ山の端の月。案内板に記された和泉式部の性空上人との結縁歌が目に止まる。詩歌には秀でたものの恋多く、紫式部に「けしからぬかた」と評されたという和泉式部が、煩悩多き己を、己の姿を知りつつそうせざるを得ない己の煩悩の深さ、即ち「くらさ」に気づきつつもなお解脱されぬ我を照らし出し導いて欲しいと祈る歌である。その「くらさ」はまた、我々が「意識」「自覚」をもってしまったことへの痛切さのようにも私は読んだ。私たちは個我に目覚め、即ち「自分は自分である」ということに気づいてしまった。さらには、自分の意識は自分の意識に過ぎず、ひとのこころはわからない、ということを痛切に知り、その孤独を引き受けて生きる。そうとしてしか生きられぬ。そして、いつかその意識を捨て去り、個我から解き放たれ、「くらい」世界に戻る、ということ。そして、生きる間のひとときの、そのひとりひとりの胸の裡をひそかに照らすのに、月の光こそあらまほしけれと思われた。

 森の中を緩やかに上る道を行くと、仁王門が現れる。更に森の奥、壽量院という塔頭の辺りでピークを越えて道は下る。十妙院という塔頭が現れた。門前の石段の踏み石は狭く斜度は急で、実用であったとはとても思えぬ。道の反対側は崖のように切り立っていて、下を覗くと石垣の下に砂利の広場が見える。木々の影の差すその小さな広場に、なぜか朝礼台が置かれている。その光景が妙に気になって、脇道を下りる。森の広場にひっそり佇む錆びた朝礼台。ようやく三脚を取り出した。

 谷へと下った向かいの斜面に、清水のような舞台造りの摩仁殿が聳える。堂に入り御真言を唱える。堂の裏手に回り順路を行けば、堂の裏は荒々しく岩が剥き出しである。この堂を造る折に削ったものか、あるいは、石山寺や長谷寺のようにこの磐に観音を見たのだろうか。そんな知的な興味が先に立った。

 さらに森の中の道を行く。緩やかに上った先に、遺跡のような静けさが開けていた。思いがけぬことであった。

 

 時が止まっている。正面と左右を黒い堂に囲まれ、白褐色の地面を春の光が白々と照らし出している。気がつけば、ずっと響いていた高速道路の音が聞こえない。三つの堂に囲まれるせいか烏の声が妙に響く。その声が却って時間が止まったかのような印象を強めている。法隆寺の風鐸も、同じく時を止めるかの効果があったようだ。ある種の音は、むしろ現実に対する覚醒を更に高めて、むしろ「実感」を希薄化する効果があるのかもしれない。

 その秘やかな空間に歩み入る。正面には食堂(じきどう)。総二階建て入母屋造り。二階にぐるりと高欄付きの回り縁を配し、正面十四間に蔀戸が全て閉ざされている。右手に講堂。講堂に正対して左手に、能舞台の如き吹きさらしの舞台が中央に突き出すのが行堂である。常行堂の背後から射し込む光が講堂を下から照らしだしている。食堂は僧達の寝食の場であり、講堂は学びの場。そして、常行堂は文字通り行の場であった。

 知的理解をするための講堂。身体経験からの理解をするための常行堂。それを踏まえた生活実践の場としての食堂。かつて、寺院とは現在の大学の如き学びの場としての意味を持ち、その学びはそうした多面的な学びであったのであろう。そして仏道とは、我が身に即した世界理解、あるいは、内界に即した外界の理解、あるいは、内外を分けぬ世界理解であり、もちろんそれは「知的理解」のみならず、「身体経験」や「内的体験」に即した「理解」であろうと思われるが、まさにその実践の場がここにあったのだ。

 

 ここは心の入江であった。三年前の「香櫨園」と題した号で、Meredith D'Ambrosioというジャズボーカリストが秘やかに歌う"cove"というアルバムに触れたことがあった。"cove"とは「入江」のこと。「"cove"とは男性の肩のくぼみのことで、そこに女性は頭をもたせかけ休むことができる。密やかな場所のようなもの。その庭の中を歩き回りたくて、その場所が気にかかる。神秘的な場所。」と彼女は記している。ここも、そんな秘やかな場所に思われた。

 ある理解に至るためには、それに適した場があるのかもしれぬ。それは、理解というものが、外に向けてのものであるのみならず、そのようにものを見る胸の裡の在り方に根ざすからである。地勢的にも秘められて、落ち着いて内へと向かう場。長谷寺然り、崇福寺然り、そうした場にこそ、このような社寺が立地するのであろう。

 ベンチに座り呆然としていた。すると、長身痩躯に黒いコートの欧州人と見える男性がやって来て、なかなか上手な日本語で写真を撮ってくれという。その語り口調から、何かアカデミックなお仕事ですか、と問うてみると、果たしてドイツ出身で日本でドイツ語を教えているという。東京に住まいを持ち関西の外国語大学で教えていたが、関西を去ることになり、様々な場所を見残したことが残念で色々な所を訪れているという。姫路城に行ったものの「ここではない」と思い、ロープウエイが運休で桜にも早い今だからこそ観光客も少ないはずとここに来たという。そして、この地の気配についての話になった。

 私はこの地の気配を長谷寺や崇福寺と類比させ、大神神社の御神体たる三輪山と大物主のこと、その背後にこそあり、また大和川の源流たる長谷川のさらに果ての谷に秘やかにある長谷寺が夢見の聖所であり、そして、蜻蛉日記の藤原道綱母が、我が身の苦しみの果てに夢に我が行く末を占わんと長谷寺に詣でつつもその夢を信じ切ることもせず醒めた目で見てもいたことなど、思いつくままに色々なことをお話しした。随分熱心に話を聞いて下さり、折角日本まで来たのに、日本のことを知らぬ「薄っぺらな人」(彼の言葉)にしか会わなかったと彼は嘆き始めた。それは決して無闇と非難するような口調ではなく、慎み深く、話の流れからようやく打ち明けたというような口調で。私は、誰しも常日頃からそんなことは話さないであろうこと、また、私が謂わばmerginal(縁辺の)な人間だからそんなことに興味を持つのであり、芸術も、病も、そして、相談に乗る臨床という営みも、本来そんな縁辺の出来事であって、皆がそうなってしまっては世の中が成り立たないのではないか、というようなことをお話しすると、確かにそうだけれども、といって悲しそうな顔をされた。ひょっとするとこの方も、遙か異国に来て、こうした場に一人歩いて登るような、何か縁辺の人なのだろうかと、あるいはそんな内的状況におられるのか、と思っていた。そうならば、あの場で彼と出会ったのも、偶然ではないのかもしれない。

 

 クレジオが憧憬と賛嘆を込めて言うように「インディオは人生を表現しない」。そこに秘められた叡智を思う。我々は目を開かされ、私とあなたとをわけ、あれとこれをわけ、善と悪をわけ、よりよいを目指すようになった。無論それとともに、他と我を比較し、苦悩の契機が起こる。それら分別を一旦無化すること。これが仏教思想の根源にあるように思われる。全ての認識は仮のものに過ぎぬということ。それに開かれるために、「特別」な場を必要とするならばそれは巨大な矛盾でもある。

 言葉による分別を捨て、ただ坐ることを求める禅。坐らぬときの禅といい、行住坐臥の全てにおいてその境地であろうとする禅は、この考えを極限まで推し進めたものと言えよう。徹底的なる有相の排除。心の深層に達しつつ、それに対する実体化を徹底的に排除し、さらに根源の「空」へと至ろうとする禅と、そこ(井筒俊彦の言葉で言えば意識のM領域)における言語たる真言を拾い上げ、曼荼羅を可視化しようとする密教。しかし、その禅ですらが、行の場として相応しい場に「寺」という有相の極みを建てる。有相のものを無化するために、そのための場を必要とする。その意味で密教と禅とは、際立った対照をなしつつ表裏一体のように思える。

 意識に目覚めた我々が、その目覚めとともに必ずや訪れる個我の発生から来る苦悩。それは人間の知恵の持つ毒と言えようが、その毒を薬へと転ずる営みとしての宗教の場なのだろう。

 

 

 彼の国の歴史、我が国の歴史、土地と人間、色々と話し込んだ。三十分ほど遅い電車でのお迎えには間に合うはずだ。名残惜しく握手を交わした。帰り道、現世への下降の道は早かった。三脚を抱えながら岩場を跳ぶように駆け下り、バスに乗った。西陽の道をバスは走る。